松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

自由な労働を義務付けられた社会

さて、ようやく前座の話が終わり、本題へと入っていきます。落語だったら前座だけで客がいなくなるレベル。本題は饅頭怖いにでもしておくか。

 

突然ですが、QLCという言葉を聞いたことがあるでしょうか。

ちなみに頭FPSの僕は、一瞬LCQと見間違えてしまいました。世界3位感動した!

QLCというのは、「クォーター・ライフ・クライシス」の略で、20代後半から30代前半にかけて訪れる、人生観に対する危機感のようなものです。れっきとした心理学のアカデミックワードであり、決して僕の造語などではありません。

まぁ平たく言えば「自分の人生はこれで良いのか」などの焦燥感を指します。

たまたま東洋経済の記事を読みあさっている時に、この言葉を知りました。

toyokeizai.net

 

少し話は変わり、私事になりますが、先日就職先を決定しました。正確には、選択肢が一つしかない、もっと言えば、内定が一つしかなかったのですが。

まあこれの2つ前くらいの記事で書いたように、社会不適合者の急先鋒にいる自分が、内定をたった一つでも獲得できただけでも、十分な成果だと、考えています。

緩やかに成長する中堅メーカーの、技術系と決まりました。

本社が少し都会から外れた工業地帯になりますが、ちゃんと住む場所を考えれば、滅多な不自由は起こらない生活が送れそうです。

内定先には悪いですが、以上から簡潔にまとめると、「まあまあな人生」を送ることになりそうです。

特別煌びやかな生活ではないが、劣悪な環境でもない。まさに中流階級です。

仕事は割と興味が持てる内容で、人も割と良さそうです。給料は分かりませんが、今のところ自分には結婚はおろか交際すら全く見えてこないため、お金に困ることはなさそうです。あまりお金のかかる趣味もありません。せいぜい、毎年スキー旅行に行きたいくらいです。そんなの初期投資さえ済めば、毎年5万円もかかりません。

 

ここで、話が戻ります。そう、QLCの話です。

本当に自分は、この人生で良いのかと、考えてしまうのです。

親は一流企業の、しかもいい役職まで上り詰めていました。

おかげで、目に見えてぜいたくな暮らしをしていたわけではありませんが、何一つ不自由のない生活を送ってきました。

実家がある街も非常に良く、今から思えば愛着の湧く街でした。

はっきり言って、恵まれていました。

そんな簡単な事実を、もちろん分かってはいたのですが、就活を通じて、より実感の伴う形で再認識させられました。

今は一人暮らしをしていますが、それでも南関東県内です。

しかし、就職先は、そこから遠く離れた街です。東京に出ようと思えば、新幹線を使わないと行けないレベルです。

いくら住む場所をちゃんと考えたって、多かれ少なかれ見劣りはしてしまいます。

利便性だってそうです。景色も随分と変わるでしょう。

別に全面ガラス張りの高層ビルに勤務したいとは思いませんが、同じ仕事なら建物は綺麗な方が、少しはやる気が出るでしょう。

また会社も中堅であり大手ではないため、福利厚生も恐らく中堅で、社員もそこまで優秀ではないでしょう。失礼な話かもしれませんが。

 

要は、都内に本社を構えるような、大手企業に入った方が、より良い人生を送れるのではないか、という仮説が、どうしても頭の中を離れないのです。

都心近くに住み、毎日綺麗な高層ビルに通い、設備の整った環境と、優秀な仲間と一緒に仕事をする。お昼は時々会社の外にあるお店などに行ったりして、時々社内かビル内にあるカフェでサボ……息抜きして、また仕事に戻る。大手の仕事は規模も大きいため、ゆくゆくは社会を、世界すら変えるような仕事に、携わる機会だってあるかもしれない。給料だって良いので、後顧の憂いなく、それなりに贅沢して質の高い暮らしができる。

まさに仕事もプライベートも充実した、文句なしの人生。それを叶えるには、ほとんど大手の企業に入るしか道はありません。

なまじ大手企業の説明会やら選考を受けていた身としては、あと少し手を伸ばしたらそれが夢ではなく現実になっていたのかもしれません。

もちろん、大手に入れば必ずいい人生を送れるとは限らないことは分かっています。でもその確率は、間違いなく他の選択肢より高いでしょう。まぁ起業すれば話は別ですけど、自分にはそんな才覚はありません。

 

そんな一歩先にある夢物語を見ると、相対的に現実はやはり、少しほの暗い様相でした。

これに悩んでいたのは4月前半あたりであったため、まだ就職活動を続ければ、そのチャンスも十分あると、考えられました。

そう、自分の人生はこれで良いのか……まさに、QLCになっていました。

そこで僕は、ずっと幸せについて、考えていました。

自分が幸せになるためには、何をすれば良いのか。

どういうときに、幸せを感じるのか。

それを持続させるには、どうすればいいのか。

そんなことを、ずっと考えていました。

 

幸せな人生を送るためには、幸せな人生を送らなければなりません。

これではトートロジーですので、人生を因数分解します。

すると、だいたいは仕事とプライベート、この2つに分けることができます。

プライベートの充実方法は、いくらか思いつきます。自分には見たいアニメとやりたいゲームと読みたい本が数え切れないほどあり、さらに一人旅も好きなので、そういったことにずっと取り組み続けていれば、価値観が大幅に変化しない限り、プライベートは幸せであると言えます。先述のように、これらはそこまでお金がかかるわけではありません。よってそこまで可処分所得が多くなくても、実現可能です。

ではその所得を稼ぐ仕事はどうでしょうか。仕事で幸せになることは可能なのでしょうか?

人間は随分と欲深い生き物で、仕事をするだけでお金がもらえる、ただそれだけで、本来は幸せなはずなのに、現代ではそれが当たり前となっているため、お金をもらうだけでは、幸せになれないのです。

では仕事で幸せになるにはどうすればいいのか。

これは自分が思うに、マズローの欲求階層説を引っ張ってくると分かりやすいと思うのです。

会社に所属した時点で、第3段階である社会的欲求は満たされたと見なします。

次が承認欲求です。簡単に言えば、会社や上司、同僚などに認められるかどうか。これは会社との相性ですが、最低限の仕事をこなせば、そこそこ満たされるでしょう。

最後が、自己実現欲求です。Wikipediaによれば、「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」です。

つまり、自分が余すことなく能力を発揮し、その結果仕事がうまくいき、いい気分になりたいという欲求です。これを満たしたとき、きっと仕事でも幸せを感じることができるでしょう。

逆を言えば、自分の能力に見合い、かつ自分のやりたい仕事ができそうな会社を、見つけなければならないのです。

これはとても大変なことです。日本だけでも会社は450万社あるそうです。

その中から、上記の条件に合致する仕事を見つけなければならないのです。

はっきり言って無理ゲーでしょう。

最近の若者が、起業したがる理由が、何となく分かります。探すより作る方が、きっと楽です。無論、起業には起業なりの苦労があるのでしょうけど。

父親も、仕事は「辛くないけどつまらない」と言って、定年を前に辞めてしまいました。きっと、会社では自己実現が達成されなかったのでしょう。

でも父は、随分と人生を楽しそうに過ごしています。その理由は、きっとプライベートがとても充実しているからでしょう。父は大の音楽好きであり、特にギターは何本も持ち、一時期はバンドを複数掛け持ち、おびただしいほどのCDを所持していました。

そんな父を見て、僕は確信しました。

仕事が楽しい、なんてのはきっと幻想なのだろうけど、プライベートが充実していれば、それだけで人生は十分幸せなのだろうと。

仕事なんてものは、正直辛くなければとりあえずOKなのです。

ここでタイトルを回収します。確かに現代日本は、職業選択の自由があります。

しかし生きていくためにはお金が必要で、お金を得るためには、働かなければなりません。もちろん、今はそれ以外にも方法はありますが、最も確実な方法は、間違いなく労働でしょう。

そういう意味で、私たちは「自由な労働を義務付けられている」と言えるのです。

確かに、楽しい仕事もあるかもしれません。しかしそれは、とても優秀なほんの一握りの人間にしか味わうことのできないもので、自分のような凡愚には手が届きようもないのです。

職業選択は、権利であって自由ではありません。職業選択の幻想と、言ってもいいかもしれません。どうせ究極的には、やることは一緒なのですから。そう、上から与えられたタスクをこなすだけなのです。私たちが選んでいるのは、その「上」でしかありません。いくら裁量権が与えられようが、会社の資産を自由に使えるわけではありません。

そういう意味では、下手に職業選択の自由という名の幻想など、与えられなくてもいいのではないかと、思ったりもします。

江戸時代は士農工商は分別され、階級として成立していました。例えかっこいい武士になりたくても、餅屋の息子は餅屋にしかなれず、豆腐屋の息子は豆腐屋にしかなれないのかもしれません。

しかし僕は、豆腐屋の息子でも構わないと思います。確かに毎日朝早く起きて、冬場は冷たい水の中にずっと手を突っ込み、あかぎれを起こしたりするのかもしれません。でも、近所の人が笑顔で自分が作った豆腐を買って行って、くだらない雑談して、いつしか村の中で結婚して、たまーに歌舞伎でも見に行って、一生豆腐を作り続けるーー。別にそれでも十分幸せでしょう。

むしろ、自分には本当は職業選択の自由があって、豆腐屋以外の可能性もあったんだと、知ってしまうことの方が、不幸であるとさえ思います。

また自分の良くない性格が出ていますね、下を見て安心する。

でも、地に足付いているかどうかを確認するためにも下を見ることは大事だと思うのです。ほら、時々ガムとか落ちてたりするし。

そもそも、人間は比較論で生きています。相対的に、比較し続けて、生きているのです。

右と左を比較し、上と下を比較し、やがて夢と現実を比較する。

だが、上を知らなければ自分が下であることも知らずに、夢を見なければ、現実の残酷さを知ることもないのです。

豆腐屋の息子は豆腐屋にしかなれないからこそ、武士の華やかな生活を知らず、自分の身の回りに起こるささやかな幸せに満足して、一生を終えることができるのです。

人間は幸福を貪る醜い生き物なのです。幸福の上限値は常に更新され続け、留まるところを知らない。故に人間は増長するのです。

それが人間を進化させる原動力であることは認めますが、際限なき幸福の追求の果ては、きっと崩壊だと思います。

 

もしかしたら大企業に行って、高給取りになれば、際限なき幸福の追求ができるのかもしれません。しかしその時、既にささやかな幸せでは満足できない体になってしまっているのです。一度肥えた舌は元に戻りません。

僕は幸福度の最大値を上げ続けるのが怖いと思うので、あまり贅沢はしないと思います。

仕事も、世界を変える中心にいるような仕事に、憧れることはありますが、でもあまりそうなりたいとは思えません。自分にそこまでの器量も責任も取れません。

そうして、煌びやかではないけど、ささやかな幸せを噛みしめて、生きていく。

そんな人生でも、きっと価値があると、結論付けました。

そうして僕は、自由に仕事を選び、義務で労働して、その合間にプライベートを楽しんで、それなりの人生を送ることにしました。

皆さんはどうでしょうか。きっと僕よりもっと高みに行って、僕を見下ろすのかもしれません。

でもその時は、きっと僕は皆さんレベルでは幸せだと思えないことでも、幸せだと感じて、生きていることだと思います。

 

 

 

ゴールデンウィーク連想ゲーム

ゴールデンウィークも最終日。明日からまた残酷な現実と向き合わなければならないのかと思うと、いつにも増して自分の肉体が感じる重力、略して体感重力が大きくなる気がします。心は物質ではないため重さは定義されませんし、重い性格の人の体重が重いという統計学的なデータも恐らく存在しませんが、しかし僕は、心が重いと感じたとき、同時に体も重く感じるようにできていると思うのです。

これを、体感重力と、勝手に呼んでいます。

ゴールデンウィークは、世界の不条理から一時目を逸らし、純粋に自分の好きなことのために時間を割いていたため、心が軽く感じ、体も軽く感じることができました。しかし夢はいつか醒めて、現実へと強制的に引き戻されます。すると、相対的にはより心が重くなり、体も重くなるものです。故に僕は、夢を見すぎることは、かえって現実とのギャップをより大きく認識することに繋がるため、結果的に良くないことであると考えています。常に現実の辛さを認識し続けていた方が、むしろ辛くないのかもしれません。

いやー、僕の良くない考え方が出ていますね、高みを見てそこを目指すのではなく、下を見て安心を求める。

でも考えてみてください。高みに上り続けて転落するより、下層にいて転落する方が、落下ダメージは小さいでしょう。よって僕は高層マンションよりアパートに住みたい。転落する前提なんだ……。

 

ゴールデンウィークだけでここまで文字を稼いでしまいました。我ながらクソみたいな文章力です。何かのタイミングさえ違っていれば、きっと僕はネットライターになっていたと思います。だって内容のない文章を書くの得意だもん。いや決してあまねくネット記事の全てに内容がないとは言いませんが、時々、これなら僕でも書けそうだと思えるような文章が、そこそこ名の知れたニュースサイトから出ていたりするものです。

 

今年のゴールデンウィークは……まだこの話続けるんだ……学生最後ということで、ちゃんと意義深いものにしようと考えていました。何でもいいですが、〇〇最後という言葉に日本人は踊らされすぎな気がします。「高2の夏は一度きり!」とかいうフレーズを見ると、何かそれが尊いものであるかのように、錯覚してしている人が多いのではないでしょうか。しかしよくよく考えれば、究極的には毎日が一度きりであるし、人生も一度きりです。例えば2022年5月5日(本記事を執筆した日)は全人類にとって一度きりです。よって先のフレーズに当てはめるのであれば、「今年のゴールデンウィークは一度きり!」というわけです。このフレーズだけ見ると、あまり特別感は感じませんが、しかし述べていることは、高2の夏以下略と同じことであるのです。

そして逆に、今年のゴールデンウィークやら夏やらが過ぎ去ろうとも、来年再来年と、ゴールデンウィークと夏はやってくるはずです。北極熊のプーさんが、変なスイッチを押さなければ、の話ですが……。

どんどん話が脱線していきますね。この前の研究室の進捗報告でも脱線しかけて危うく路線を修正したこともあるどうも松前藩主です。なおこの路線はあと一年と持たずに廃線になることが確定しているため、今更発展させようとか思いませんけどね!

で、今年のゴールデンウィークは……もう書き手側も飽きてきたのだが……「計画的に遊ぶ」をテーマとして、毎日遊んでいました。いや何も意義深くねぇ……。

いつもは割となあなあで終わってしまうのですが、今年はしっかり遊ぼうということで、この日はソシャゲ、この日はラノベ、この日はノベルゲーなど、毎日目標を立てて遊んでいました。今日は最終日なので、その総まとめとしてブログを書く日と決めていました。

でも計画的に遊んだおかげで、今になって振り返ると、満足度の高いゴールデンウィークを過ごせた気がします。月曜日が平日なのも、むしろ良いスパイスだったと思います。ただ遊ぶだけでなく、周囲とコミュニケーションを取ることで、ただ遊ぶだけでは得られないものを、得ることができました。まあ世間では「GWの谷間」とか言われ、Twitterのトレンドにも乗るくらい、忌み嫌われていましたけど。そしてそのトレンドを目にした瞬間、これはもう確実に谷間という言葉にかこつけて、売れない人たちが2次元3次元問わず、エロ画像を投下していることを予測しました。ただ僕も難儀な性格をしているもので、どんなにくだらない仮説だったとしても、一度自分の中で立てた仮説は、検証しないと気が済まないという、無駄な好奇心を持っており、「これは仮説の検証だ……」などと言い訳めいた言葉を独り言ちながらトレンドを開くと、案の定売れない人たちが2次元3次元問わず、エロ画像を投下しており、僕はその様子を見て、思わず笑ってしまいました。しかし仮説の検証という高尚な作業を行っているとは露ほども知らないであろう周囲のラボメンバーから見たら、それはもうニヤニヤしながら2次元3次元問わずエロ画像を漁っているという、通報一歩手前の行為をしているやべー奴にしか見えていなかったに違いありません。

 

なんで本題の前座であるゴールデンウィークだけで、記事一本分の文章を書いているのでしょう僕は。いや本当はこの後に、自分の心の整理のために、もっと大事なことを書く予定があったのです。タイトルも決めていて、「自由な労働を義務付けられた社会」とかいうすかしたタイトルで、かっこよく決めようと思っていたのです。

気づいたら気持ち悪いエピソードトークしかしていない!

……もうこれで、とりあえず一本投稿しますわ。

気が向いたら本題の方を、お風呂上りにでも書くとします。

ただ現在少し目が痛くて……それが今後悪化するようでしたら、書かないかもしれません。

その場合は、GWの谷間というトレンドから出てきたエロ画像を見てニヤニヤしていたやべー奴という印象だけが付いて、しばらくブログは動かなくなるでしょう。

……そんなの僕は嫌だ!それこそ欅坂46並みに叫ぶまである。今は少し名前違うんだっけ。まあ何でもいいや。

からの~、逃げちゃだめだ!とシンジくん並みに叫ぶまである、いや彼はそう叫んではいない気もするけど。まあ何でもいいや。

 

前座だけで2,500字以上書いたこの最高に中身のない記事、これでも喰らいな。

仕事をするということ

昨日、両親が実家からはるばる自分の部屋までお菓子を届けに来ました。

その後、ご飯を食べながら、就活について色々話しました。

結論から言うと、圧倒的な準備不足が浮き彫りになりました。

そもそも僕は、自己分析が足りなかったのです。

明日は朝から面接ですが、もはや間に合いそうにありません。

ただせめて、次回以降はもっとうまくやるために、明日を犠牲にしてでも、今ここで考えたことをまとめる必要があると思い、これを書くのです。

 

まず、そもそも仕事をする必要があるのか、という問題提起をしなければならないでしょう。

どうせ人生は一度きりなのですから、そこで嫌な人生を送るのは、もったいないというものです。もはや良い大学に入って、良い企業に入るという既定路線が、幸せな人生だという価値観は、終わりつつあります。以前より、自由に生きることが許容される社会になりつつあります。

ただ、嫌なことをやりたくないからと言って、好きなことをやり続けるのも、個人的には良くない選択だと考えています。

例えば、全人類が好きなことををやったら地球は滅亡すると思います。

このフレーズは、ピノキオピーの「すきなことだけでいいです」からとってきました。

www.youtube.com

基本的に、好きなことだけでは、人は生きていけないように作られています。

僕の場合なら、アニメを見て、小説を読んで、ゲームをすることですが、すべてを投げ捨ててそれらに没頭したら、きっと僕は際限なくエンタメを貪る豚に成り下がるでしょう。

別に僕としては、例え豚に成り下がろうが、餌と住処さえあれば、別に構いません。

でも残念ながら、働かざる者は食うべからずの世界なのです。人間は何かを消費する代償として、何かを生産し続けなければならないのです。

では、その好きなことを仕事にできないのか、という問いが出てきます。

ただそれも、不可能とは言えませんが、現実的に厳しいでしょう。

例えば各種エンタメのレビュアーになるとか、ゲーム実況をするとか、そういったアプローチが考えられます。でも、同じレビュアーが何人もいたとき、人は往々にしてレビュアーの肩書で信頼度をインスタントに推し量るものなのです。そりゃあそうでしょう、専門家と一般人のレビューが並んでいたら、誰しもが前者に重きを置くでしょう。何者でもない者の話など、聞く暇はないのです。

あるいは、ゲーム実況であれば、消費することがそのまま生産することに繋がります。二次加工みたいな考え方です。でもそれは、加工技術が高くて初めて成立する商法であり、センスのない人では成立しません。そして残念ながら、自分にそのセンスがないことは、自身で立証済みです。

以上から、好きなことを消費することを仕事にする路線は消えました。

次に考えるのが、好きなことを生産することになります。

ただこれも先ほどと同様に、センスの有無が問われてきます。

特にエンタメ分野は、何よりセンスが命です。例えシナリオやゲームシステム、作画やグラフィックに落ち度がなくても、センスがなければ膨大なエンタメの山に埋もれてしまいます。すべての評価基準をクリアしたうえで、更に+αが付随してこないと、今や全く売れない時代なのです。

そしてその+αの部分が、そのままセンスに繋がります。こういう時、よくボールの投げ方の話が持ち出されます。クリエイターがとあるゴールに向かってボールを投げるとき、どう投げるのが正解でしょうか。

答えは決まって、ゴールの「一歩先」です。ゴールそのものでもなく、ましてやゴールから外れすぎてもいけません。ゴールの一歩先に投げ入れることで、ユーザーに共感性と目新しさを同時に与えることができ、良質なエンタメになるのです。

ただ理論的な答えは決まっていても、現実に落とし込むことは困難を極めます。

ユーザーがどこにいて、一歩先とは具体的にどれくらい離れているのか、恐らくそれがはっきり見える人はほとんどいないと思います。だから有名企業でさえも、時折満足度の低いエンタメを出してしまうのです。

そして残念ながら、僕は極度のマイノリティなので、多数派の立ち位置が見えないのです。その証拠に、いくつかのゲーム会社に企画書を送ってみましたが、そのジャンルは斜陽産業と言われるビジュアルノベルにわずかばかりのゲーム性を加えただけであり、案の定企画書が通ったことは一度もありませんでした。

つまり有り体に言って、僕にはセンスがないのです。少なくとも、大衆受けするコンテンツを作る力はありません。

さて、これで好きなものを生産する路線が立ち消えました。他のモノづくりならともかく、好きなものを作る企業は、高い基礎能力に加えて熱意が必要なのです。

そして熱意なんてものは、僕にはこれっぽっちも持ち合わせていないものでした。

何せ、豚に成り下がってもいいと、本気で言えるくらいなのですから。

 

そもそも根底として、僕はこの世界が嫌いなのです。

もちろん、良いところもあります。ただ、この世界はあまりにも生きづらいと、常々思ています。

きっと僕は、人間が怖いのです。だから、人間が支配するこの世界が、嫌いなのです。

例えどんな人生を送ろうが、確実に嫌な人生を送ることが、確定しているのです。

……ここに来て、文字を打つ手が、よく止まります。

最近、よく書類選考の一環として、性格診断を受けさせられます。

その中に、「自分の好意や弱みを見せると、他人はそれに付け込んでくる」という設問に対し、よく当てはまると回答します。

小学生の頃から、何度も他人に裏切られ、そして何度も他人を裏切ってきました。

他人と信頼関係なんて絶対に結べません。人間は必ず自己中心的で、他人は自分の踏み台でしかないと、考えているものなのです。もしそう思えないのなら、その人はきっと揺るがない信頼関係を信じているのか、頭の中がお花畑なのでしょう。

だからこれ以上、この話を書くことは、もはや本能が許さないのでしょう。

 

代わりに、もう少し現実的な話をしようと思います。

何の奇跡か、ゲーム業界の大手パブリッシャーのインターンシップに複数参加することができて、そのまま本選考も行けると勘違いした結果、ほぼ全敗という結果に終わりました。

親にこれを話したところ、敗因を分析した方がいいと言われました。落ちるのは必ず理由があって、それは割と準備不足に起因するものが多いと。人事ではないとはいえ、一時期採用活動に携わっていた親が言うのですから、きっと的を得ているのでしょう。

企画書の敗因は、もう既述の通りです。僕はこれを改める気はないので、これからも企画書は落ち続けていくのでしょう。気が向いたら、もっと別の企画でも考えてみますが、もうそんな気力も気概も、残されていません。

企画書以外の敗因を考えると、やはりインターンと本選考の基準の差に帰着するでしょうか。

インターンは、表向きは学びを得てほしいという意図で行われています。僕もそれを知っていたので、志望動機を書くのは簡単で、かつゲーム作りをプロの視点から学んでみたいという想いは本物だったので、それが伝わったのか、よく通過しました。

ただ本選考は、一緒に働きたいかどうか、そして親曰く、会社を変えていける人かどうか、という点が重要視されます。

そして両者の点を、僕は満たさない人材でした。この世界が嫌いだとほざく人を欲しいとは思わないし、会社を変える気概もないので、そんな人はいらないのでしょう。

見事に、就活開始当初に抱いた懸念がヒットしました。やはり僕は社会不適合者であり、そんな僕を欲しがる企業は、どこにもいないのでしょう。

これはもう詰みですね。あとは演技力で何とかするしかありません。

ただどうでもいいウソの演技力は高いのですが、大事な時に限って、嘘が下手になるので、この手も望み薄でしょうか。

ただ好きではないものを生産する仕事に関しては、演技と知ったうえで通してくれる可能性もあると思うので、今後はそっちの路線にシフトすることになるのでしょうか。

 

やはり僕の人生の結論は変わりません。

どうせ分かってもらえないと分かりながらも、僕の心にわだかまっている息苦しさを何らかの形で表現して、それが終わったとき、すべてを終わらせるだけです。

そうか……あと1年で院は終わり、嫌でも独り立ちさせられる。誰の何の縛りもなく、真に自由に生きられる。そこから全てが終わりに向かって始まるのか。

これは本当に、もてない太宰治ルートになりそうですね。手が震えてきました。あの道を歩むことの嬉しさか、はたまた恐怖か、それすらも分かりませんが。

あれから1年

 ちょうど一年前、こんな記事を書いていました。訳あって非公開設定にしたままでしたが、いまさらなので公開します。

matsumaehansyu.hatenablog.com

 

 「あまりこんなことを言ってはいけないのですが、僕は卒業研究に対してさほど頑張ろうという気はありません。

一年前の自分は、こんなことを書いていました。確かに当時はまだコロナ以前の世界でしたので、きついコアタイム、非難飛び交うゼミ、不安定な人間関係が念頭にあって、とてもやる気が起きなかったのです。

しかしコロナがすべてを吹き飛ばしました。

コアタイム制は崩壊し、ゼミはオンラインのせいか緩やかになり、世界があまりにも不安定になったおかげで、人間関係が些末な問題に成りさがりました。

ラボが再開してからは、三密の回避という名目で、実験量を個人でコントロールできる(やる気と実験量が正確に比例する)ようになりました。

一方、やる気に関しては日が経つほどに上がっていきました。正確には、あれはやる気というより、焦燥感と呼べるようなものでしたが。

ただでさえ最初の2か月が失われ、加えて自らの才能のなさを自覚していた僕は、とにかく実験しなければ、何も結果が出ず卒論が書けなくなると思っていたのです。実際に、ラボが再開してからしばらく結果が全く出ず、焦燥感が増大していきました。

結果が足りないという焦燥感はその後、卒論を書き終わるまで続きました。

気づいたら僕は、「結果を出さなければならない」と思い込んでいたのです。

一年前の僕は、結果が出れば御の字くらいだと、思っていたというのに。

自分を忘れるほどの強烈な焦燥感で、自らを騙していたのです。

 

この一年間、一年前の頑張らない宣言とは裏腹に、随分と、身の丈に合わないほど、頑張ってきました。

それは前出の焦燥感もそうですが、正直に言って同期がほとんど優秀でないからこそ、自分が頑張らなければならないという使命感もありました。

また、自分の直属の上司にあたる人があまりにも優秀すぎて、常に比較され続けるからこそ、頑張らなければならないというプレッシャーもありました。

ポジティブな感情としては、自分の予想を上回って面白い結果が出てきて、研究そのものが楽しくなったこともあります。

特に、なんだかんだ楽しかったことが、この一年間頑張ってきた理由なのかもしれません。

ただ年明けからは、その頑張ろうという気持ちがマイナスに働いてしまっていました。

年末にプログレスをして浮かんだ問題を一刻も早く解消しなければならない、卒論も書き進めないといけない、卒研発表も作って、学会の準備もして、新メンバーのトレーニングにも人一倍参加して、更にはここではまだ言えない実験の話もあって、この3か月は体力と精神を摩耗し続けていました。命を削ったとさえ言えます。

で、これまた希死念慮的な発想で、過労死するなら本望とでも言わんばかりに、命を削る感覚に一抹の喜びさえ見出していたので、体調を崩そうが成し遂げてやると思っていました。

そして上記の全てのタスクが終わり、このブログを見返して、一年前の記事を見つけました。

もともとは、一年前のこの記事を書いていた僕が、本当の僕なのです。

努力は報われないと諦め、頑張るやつらを鼻で笑い、自分は適当に物事を済ます。常に集団の後方に位置し、あまつさえそれを離れて一人で自分の道を行くような身勝手な人間なのです。

本当は頑張らない人間だったのに、上記のような様々な要素によって、この一年間は不釣り合いに頑張りました。同期を引っ張ってきたという自負も、あります。

でもさすがに疲れました。似合わないことをして、無理をしました。

頼りない同期も少しは成長し、結果も残しました。

この一年間は、僕が頑張ってきました。

なら次の一年は、他の人に頑張ってもらいましょう。

僕は一年ぶりに、本当の僕に戻ることにします。

 

顔の使い分けpart2

三が日くらいしか、ブログを書く余力が出ないのです。

よって今日も書きます。明日は別の何かを書くと思うのでブログは今日でまた止まる予定です。

 

顔の使い分けというタイトルで、以前にも記事を書いたことがありました。

当時の自分は友人が起こしたとある事件にとても失望し、その思いをぶつける場所がなかったので、ここに色々と書いたと思います。

なぜ直接本人に言わないかというと、言っても無駄だと悟っていたからです。決して真正面から言うのが怖かったとかではありません。実際に自分はあの事件の直後に、手短ですがラインで厳しい言葉を送り付けています。

あそこで立ち上がるか否かが、彼の研究生活の今後を左右すると思っていたからこそ、立ち上がらせるために敢えて厳しい顔をしたというのもあります。彼の性格的にも、多分甘やかすより厳しく接した方が立ち上がってくるだろうと思っていました。

 

最初は立ち上がる素振りを見せてくれました。これならまた近いうちに元通りになると、当時の自分はそう期待していました。

だがそれも一瞬の話で、気づけばまだ堕落していきました。

彼があの事件で身に着けたのは、研究への誠実さではなく、表面を着飾る方法だったのです。

以降、クリティカルなやらかしは耳にしませんが、手を抜けるところで抜きまくって、体裁だけは整えて、のらりくらりとやり過ごしています。

彼は何のために大学院に進学するのでしょうか……モラトリアムを楽しむためだけに沢山のお金を息子に取られることになった親御さんがひたすらかわいそうですね。

今や他のラボメンの大半が、彼を信用していません。怒りや呆れの声すら聞きます。

自分は、もはやそういった感情すら、彼に向けていません。期待する価値も、救える余地も、何一つ残っていないと思ったからです。

怒りという感情は、随分とたくさんのエネルギーを使う感情です。自分にはそのエネルギーを彼に注ぐほどの余裕も義理もありません。

 

ただ、一方的な視点だけでは考えが偏ると思います。そんな中、つい最近、珍しくまだ彼の味方をする気がある人と話をしました。

「彼は責任感が強いから、普通ならそんなことはしないはず。なにかきっと事情がある」

確かに、一理あると思います。実際、当時の彼はまだ部活をやっていて、そちらが本格的に再開したから、研究に割く力が減ったという説明も、付けることはできます。

ただ別のある人は、以前こう言っていました。

「もう部活はないはずなのに、なんであいつはラボに来ないんだ?」

彼は部活を恐らく12月あたりで引退したはずです。それ以降は、また研究に力を入れられると思うのですが、彼は12月に入っても、体裁だけ整えたサボりを繰り返しました。

これでもなお、責任感が強いと、言えるのでしょうか。

個人的には別にラボに来てほしいとは思いませんが、来るなら来る、来ないなら来ないではっきりしてほしいですね。その優柔不断な態度のおかげで、迷惑を被っている人もいるのです。

 

さて、ここからがタイトルの通り、顔の使い分けになるのですが。

昨年のあの事件の後、自分は顔を使い分けると書きました。

友人としてはこれからもいい顔をするけど、ラボメンとしてはもういい顔をしない。

でもきっぱりとした顔の使い分けなんて生まれて初めて行うので、正直うまくいくか、心配していた点もありました。

今振り返ってみると、自分の想定以上に、うまく顔を使い分けていると思います。

実際に、友人としては今も親交があります。一緒にゲームしたり、バカ話をして笑いあっています。

でも研究の話は、ほぼしていません。

いやもしかしたらしているのかもしれませんが、記憶にはありません。

恐らく記憶に残らない程度の、内容のない話しかしていないのです。

そもそも、研究に対して真面目に取り組んでいない人の研究の話を、真面目に聞く価値があるのでしょうか。

自分はないと思うので、真面目に聞いていません。比較的最近覚えた、頭を使わずに脊髄反射で返答するような、そんな扱いです。

それでもって、表面上は波風が立っていませんからね。実にうまい顔の使い分け方です。

別に自分が大人だと言うつもりはありませんが、望まなくても人は大人になってしまうのだと、最近考えています。彼は大人のように表面だけ取り繕うずる賢さを覚え、自分は大人のように仕事とプライベートで顔を使い分けることを覚えました。

改めて、なるほど大人になんてなりたくないと、人々は言うわけですね。

神様じゃなくなった日

新年あけましておめでとうございます。

昨年はあまり精力的な活動ができませんでしたが、今年は頑張りません。

今年は忙しくなりそうです。

ブログも、これまで以上に書く頻度が減ると思います。

 

ただ書きたいことは2つあって、それを大みそかと今年に分けて書こうと思ったのですが、やる気が出ませんでした。発表のスライドを作っていたせいでひどく疲れてしまったのです。

 

今回は、昨年に放映されたアニメ「神様になった日」について書いていこうと思います。いろいろと思うところがあって、これは文章化したかったところです。

結論から言うと、神様になった日は麻枝さん史上最悪の失敗作と言えるでしょう。

ただ麻枝さんの(にわか)ファンとしては、どうしてこうなってしまったのかを、色々と考えるわけです。その考えた内容を、これから書いていこうと思います。

それで、書く順番を悩んだのですが、敢えて最終話から遡る形にしてみようと思います。よって以下ネタバレとなります。

 

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顔の使い分け

向こうには書けない話なのでこちらに。

事件が起こったのは9/24。

僕が所属している研究室では、バイトのシフト表みたいなものがあります。

ラボメンがフル参加すると部屋に対する人口密度が高すぎて三密になるため、定員を10-11人に設定して、各々が研究室に行く時間を出席表に記入しているのです。

ここで出席表をバイトのシフト表に例えたのは理由があります。

バイトのシフト表は基本的に守って然るべきものですよね。守らなければバイト先を追放されることでしょう。

研究室の出席表も、バイトのシフト表のように守って然るべきものだと、僕は考えています。研究とは試薬や設備を使う代わりに、成果を出す営みです。これはバイトでお金を貰う代わりに労働することと、構図は同じです。

卒業研究は決して遊びではありません。研究は立派な社会活動の範疇です。

その研究室の出席表を厳守するのは当然のことでしょう。会社やバイト先に遅刻・欠勤してはいけないと考えられるのなら、同様に研究室にも遅刻・欠席してはいけないでしょう。

ただ非常に残念なことに、当研究室では遅刻や無断欠席が後を絶ちません。

特に自分の同期が、よくこのようなことを平然と行っています。

しかも今回の事件は、百歩譲って無断欠席を許したとしても、もっと根本的な理由で許せない点が、2つもあるのです。

1つ目は、他人に多大な迷惑をかけたこと。

研究を一人でやっている場合は、遅刻欠席したところで、基本的に自分しか損をしません。しかし誰かと一緒に研究をしている場合は、その研究相手にも被害を及ぼします。

研究室に所属している人にとって、研究活動の妨害は即ち人生の妨害です。

なぜなら、たとえ将来研究職にならないとしても、現時点では研究室に所属している人の人生のメインは研究活動だからです。

一週間の時間の使い方の内訳をみれば、最も多い割合を占めるのは研究活動でしょう。

僕は他人の人生の妨害を行う人間が一番嫌いなタイプの人間です。それがたとえ自分の人生でなくても、自分に近しい人間の人生を妨害するようであれば、そいつはもはや僕の敵です。

人生の妨害ほど、非生産的な行為はありません。やる方も、やられる方も、大いにマイナスです。そんなくだらないことをするために生きているのなら、いっそ死んだ方がマシです。

そしてもう一つの許せない点は、事後対応の不誠実さ。

例えば寝坊して遅刻が確定した時、一般的にはまず最初に何をしますか?

学校や会社といった、自分が所属している組織に対して、謝罪のメールないし電話をかけますよね。それが当たり前で、一般常識で、最低限守るべき社会のマナーだからです。

しかし今回の事件を起こしたそいつは、まず最初に、出席表の改竄を行いました。

これ以降の時系列は、自分は当事者ではないので、あやふやな部分もあるのですが。そんなくだらないことは、全部の謝罪と贖罪が終わった後に勝手にやればいいことでしょう。

そして次に、先輩に謝罪のラインを送りました。

しかしこの先輩は、今回の無断欠席で「最も被害を受けた人」ではありません。

普通こういう連絡は、自分が最も迷惑をかけた人から順番に取っていくものでしょう。

しかもその後、研究室に伺いますと連絡を入れた後、それも取り消し。

周囲の人間を散々に振り回し、結局なにもしなかったわけです。

確かに自分は直接の被害者ではありませんが、ここまで傍若無人な振る舞いをされると、同期全体に対する不信感に繋がりかねません。

すると、本来何も悪いことはしていないはずの人たちまで、変に疑われることになるのです。

 

今回の一件で、僕は気づきました。

そいつが、どれだけ研究をなめくさっているのか。

別に僕は、研究を第一にしろと言っているのではありません。

第二でも第三でも構わないけど、迷惑はかけるなと言いたいのです。

当の本人は、あの後すぐに研究室に行こうと思ったけど、先輩に怒られるのが嫌だから時間をずらして行ったなどと、笑いながらほざいているのです。

よくも平気な顔して笑えるよなと、もはや怒りの言葉も出てきません。

巷でよく言われていることですが、人間は怒りを通り越すと呆れます。

まさに僕は、呆れました。怒りとは、相手に対して期待しているからこその感情なのです。

僕はもう、そいつには何も期待できないし、するつもりもありません。

直接の被害者ではないことも含めて、僕はそいつに怒ることはしません。

ただ、顔を使い分けることにしました。

長らく接してきた友人の一人なので、友人としては、これからもいい顔をします。

しかしラボメンとしては、もういい顔はしません。

そういう顔の使い分けを、僕もそろそろ覚える時期なのでしょう。

自分で言うのもなんですが、こういうことが、大人になることなのだろうかと、考えたりします。なるほど大人が大人になりたくないなんて言うわけです。