松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

仕事をするということ

昨日、両親が実家からはるばる自分の部屋までお菓子を届けに来ました。

その後、ご飯を食べながら、就活について色々話しました。

結論から言うと、圧倒的な準備不足が浮き彫りになりました。

そもそも僕は、自己分析が足りなかったのです。

明日は朝から面接ですが、もはや間に合いそうにありません。

ただせめて、次回以降はもっとうまくやるために、明日を犠牲にしてでも、今ここで考えたことをまとめる必要があると思い、これを書くのです。

 

まず、そもそも仕事をする必要があるのか、という問題提起をしなければならないでしょう。

どうせ人生は一度きりなのですから、そこで嫌な人生を送るのは、もったいないというものです。もはや良い大学に入って、良い企業に入るという既定路線が、幸せな人生だという価値観は、終わりつつあります。以前より、自由に生きることが許容される社会になりつつあります。

ただ、嫌なことをやりたくないからと言って、好きなことをやり続けるのも、個人的には良くない選択だと考えています。

例えば、全人類が好きなことををやったら地球は滅亡すると思います。

このフレーズは、ピノキオピーの「すきなことだけでいいです」からとってきました。

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基本的に、好きなことだけでは、人は生きていけないように作られています。

僕の場合なら、アニメを見て、小説を読んで、ゲームをすることですが、すべてを投げ捨ててそれらに没頭したら、きっと僕は際限なくエンタメを貪る豚に成り下がるでしょう。

別に僕としては、例え豚に成り下がろうが、餌と住処さえあれば、別に構いません。

でも残念ながら、働かざる者は食うべからずの世界なのです。人間は何かを消費する代償として、何かを生産し続けなければならないのです。

では、その好きなことを仕事にできないのか、という問いが出てきます。

ただそれも、不可能とは言えませんが、現実的に厳しいでしょう。

例えば各種エンタメのレビュアーになるとか、ゲーム実況をするとか、そういったアプローチが考えられます。でも、同じレビュアーが何人もいたとき、人は往々にしてレビュアーの肩書で信頼度をインスタントに推し量るものなのです。そりゃあそうでしょう、専門家と一般人のレビューが並んでいたら、誰しもが前者に重きを置くでしょう。何者でもない者の話など、聞く暇はないのです。

あるいは、ゲーム実況であれば、消費することがそのまま生産することに繋がります。二次加工みたいな考え方です。でもそれは、加工技術が高くて初めて成立する商法であり、センスのない人では成立しません。そして残念ながら、自分にそのセンスがないことは、自身で立証済みです。

以上から、好きなことを消費することを仕事にする路線は消えました。

次に考えるのが、好きなことを生産することになります。

ただこれも先ほどと同様に、センスの有無が問われてきます。

特にエンタメ分野は、何よりセンスが命です。例えシナリオやゲームシステム、作画やグラフィックに落ち度がなくても、センスがなければ膨大なエンタメの山に埋もれてしまいます。すべての評価基準をクリアしたうえで、更に+αが付随してこないと、今や全く売れない時代なのです。

そしてその+αの部分が、そのままセンスに繋がります。こういう時、よくボールの投げ方の話が持ち出されます。クリエイターがとあるゴールに向かってボールを投げるとき、どう投げるのが正解でしょうか。

答えは決まって、ゴールの「一歩先」です。ゴールそのものでもなく、ましてやゴールから外れすぎてもいけません。ゴールの一歩先に投げ入れることで、ユーザーに共感性と目新しさを同時に与えることができ、良質なエンタメになるのです。

ただ理論的な答えは決まっていても、現実に落とし込むことは困難を極めます。

ユーザーがどこにいて、一歩先とは具体的にどれくらい離れているのか、恐らくそれがはっきり見える人はほとんどいないと思います。だから有名企業でさえも、時折満足度の低いエンタメを出してしまうのです。

そして残念ながら、僕は極度のマイノリティなので、多数派の立ち位置が見えないのです。その証拠に、いくつかのゲーム会社に企画書を送ってみましたが、そのジャンルは斜陽産業と言われるビジュアルノベルにわずかばかりのゲーム性を加えただけであり、案の定企画書が通ったことは一度もありませんでした。

つまり有り体に言って、僕にはセンスがないのです。少なくとも、大衆受けするコンテンツを作る力はありません。

さて、これで好きなものを生産する路線が立ち消えました。他のモノづくりならともかく、好きなものを作る企業は、高い基礎能力に加えて熱意が必要なのです。

そして熱意なんてものは、僕にはこれっぽっちも持ち合わせていないものでした。

何せ、豚に成り下がってもいいと、本気で言えるくらいなのですから。

 

そもそも根底として、僕はこの世界が嫌いなのです。

もちろん、良いところもあります。ただ、この世界はあまりにも生きづらいと、常々思ています。

きっと僕は、人間が怖いのです。だから、人間が支配するこの世界が、嫌いなのです。

例えどんな人生を送ろうが、確実に嫌な人生を送ることが、確定しているのです。

……ここに来て、文字を打つ手が、よく止まります。

最近、よく書類選考の一環として、性格診断を受けさせられます。

その中に、「自分の好意や弱みを見せると、他人はそれに付け込んでくる」という設問に対し、よく当てはまると回答します。

小学生の頃から、何度も他人に裏切られ、そして何度も他人を裏切ってきました。

他人と信頼関係なんて絶対に結べません。人間は必ず自己中心的で、他人は自分の踏み台でしかないと、考えているものなのです。もしそう思えないのなら、その人はきっと揺るがない信頼関係を信じているのか、頭の中がお花畑なのでしょう。

だからこれ以上、この話を書くことは、もはや本能が許さないのでしょう。

 

代わりに、もう少し現実的な話をしようと思います。

何の奇跡か、ゲーム業界の大手パブリッシャーのインターンシップに複数参加することができて、そのまま本選考も行けると勘違いした結果、ほぼ全敗という結果に終わりました。

親にこれを話したところ、敗因を分析した方がいいと言われました。落ちるのは必ず理由があって、それは割と準備不足に起因するものが多いと。人事ではないとはいえ、一時期採用活動に携わっていた親が言うのですから、きっと的を得ているのでしょう。

企画書の敗因は、もう既述の通りです。僕はこれを改める気はないので、これからも企画書は落ち続けていくのでしょう。気が向いたら、もっと別の企画でも考えてみますが、もうそんな気力も気概も、残されていません。

企画書以外の敗因を考えると、やはりインターンと本選考の基準の差に帰着するでしょうか。

インターンは、表向きは学びを得てほしいという意図で行われています。僕もそれを知っていたので、志望動機を書くのは簡単で、かつゲーム作りをプロの視点から学んでみたいという想いは本物だったので、それが伝わったのか、よく通過しました。

ただ本選考は、一緒に働きたいかどうか、そして親曰く、会社を変えていける人かどうか、という点が重要視されます。

そして両者の点を、僕は満たさない人材でした。この世界が嫌いだとほざく人を欲しいとは思わないし、会社を変える気概もないので、そんな人はいらないのでしょう。

見事に、就活開始当初に抱いた懸念がヒットしました。やはり僕は社会不適合者であり、そんな僕を欲しがる企業は、どこにもいないのでしょう。

これはもう詰みですね。あとは演技力で何とかするしかありません。

ただどうでもいいウソの演技力は高いのですが、大事な時に限って、嘘が下手になるので、この手も望み薄でしょうか。

ただ好きではないものを生産する仕事に関しては、演技と知ったうえで通してくれる可能性もあると思うので、今後はそっちの路線にシフトすることになるのでしょうか。

 

やはり僕の人生の結論は変わりません。

どうせ分かってもらえないと分かりながらも、僕の心にわだかまっている息苦しさを何らかの形で表現して、それが終わったとき、すべてを終わらせるだけです。

そうか……あと1年で院は終わり、嫌でも独り立ちさせられる。誰の何の縛りもなく、真に自由に生きられる。そこから全てが終わりに向かって始まるのか。

これは本当に、もてない太宰治ルートになりそうですね。手が震えてきました。あの道を歩むことの嬉しさか、はたまた恐怖か、それすらも分かりませんが。