松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

過労死マラソン第1コーナー

「社会人なんてなるもんじゃねぇって」
先日、遂に研究室の同期にこんなラインを送ってしまった。

 

新人研修は1か月を経過した。この1年の間に、当社の50年の歩みと、当社よりはるか前から存在する社会人という概念について叩き込むのだから、それはもう前時代的な詰込み型教育である。満員電車を忌避して地方の会社に来たつもりなのに、頭の中が満杯である。
そんな訳の分からない日々を過ごす中で、いよいよ僕も変なことを考えるようになってしまった。いやそれはいつも通りなのかもしれないが。

 

時間とは実は不定形で非定量的で不明瞭な概念なのかもしれない、と最近思っている。
いやそんなことはない、毎日アラームは6:30に鳴るし、始業時刻の50分前に研修会場に入っても残業代は出ないし、そのくせ終了時刻は数分程度も負けてくれないじゃないか、などという意見は当然のように出る。半分以上会社に対する愚痴なんだよなぁ……。
だが、それこそ3週間の研修に50年分の知識を詰め込み、慣れない環境に身を置き続けていると、時間の概念が狂ってくる。入社式当日は、一日の長さに絶望したというのに、休日になった途端に時間の流れが加速しだして、今やこの1か月はあっという間だったのではないかしらと思う。そして気づいたら病院のベッドの上で、ひとりで人生なんてあっという間だったなと思いながら死んでいくのだろう。孤独死は確定してるんだ。

 

実家を出たときの僕は、過去一番死んだ眼をしていたと思う。なぜなら、いつもより早起きだったからだ。理由が安すぎる。

無論、これから社会人にならなければならないことに対する絶望感の表れである。
イヤホンに耳を突っ込み、「愛なんて歌わないよ勝利も成功も~♪」とかいう歌詞のついた曲を爆音で聞きながら、新幹線の窓の外の、流れが速すぎる景色をずっと見ていた。
名古屋に上陸したのは初めてだが、ちゃんと都会で驚いた。まぁ名古屋に住むわけではないのだが。
入社式の数日前に、遠方組は宿舎に入寮しなければならない。そこでまずは名古屋で鍵を受け取ってから、寮に向かう手筈だ。
集合時間になっても、5人中3人しか集まらないアクシデントもありつつ、鍵を受け取った。

最後に、担当者とこんな会話をした。

「社会人になった感想はどうですか?」

「うーん、怖いですね……」

「どういったところが怖いですか?」

「働くという概念そのものです」

 

宿舎は豊田市の駅近で、それなりに栄えていたのだが、会社からは遠いし、部屋は喫煙可の物件だったためちょっと臭かった。

着替えだけでOKとかいう謳い文句だったのだが、洗剤もシャンプーも3回分しかないし、ボディーソープはそもそも置いてなかった。ドラッグストアで3,000円も買うことは、この先あまりない経験だろう。

この日は訳も分からず名古屋コーチンの親子丼を食べて、案の定普通の卵との違いは何も分からなかった。

 

3/31、この日は学生最後の日であるはずなのだが、会社で健康診断をした。

労働契約書では4月1日付で雇用であったのだが、3/31はボランティアか何かですか?

朝6時半に起きるという学生時代では到底考えられない早起きをして、会社へ向かった。

そしてボランティアのはずなのに創業者の著書を読みながら健康診断を待ち、それが終わったら入社式のリハをした。小学校かここは。

 

4/3、これは人生で体感一番長い日だった。午前中に入社式を終えたら、午後から早速研修である。しかも研修の最初と最後に起立して礼を言わなければならない。前時代的である。まあ眠気覚ましのいい機会だと捉えておこう。

副社長のしょうもない茶番に付き合いながら、だからあなたは社長になれなかったんですよと心の中で呼びかけ、しかし顔は真面目にしているのだから、我ながら随分と演技派である。進むべき道は別にあったのかもしれない。

 

とまあ、書こうと思えば毎日でも書けるのだが、いかんせん体力が持たない。

本当は1か月分丸々書こうと思ったが、到底無理な話である。

せめて、過労死するまで終わらないマラソン、つまりこれは自らがゴールを設定することができるという言い方をすると、あたかも自由系だと錯覚させることができる魔法の言葉でもあるのだが、実態はさにあらず、死ぬまで走り続ける以外の選択肢がない地獄もマラソンも、1か月続けて、大したことのない給料に絶望しつつ、ニトリのベッドは引っ越しの日には到底間に合わない事実に更に絶望がマリアナ海溝まで深まり、もはやこの文章は100年前の文学作品の如く長い文章に膨れ上がり、訳も分からない日々を過ごして訳も分からない文章を書く人生を受け入れる期間でしかないと悟ったとき、せめてその過程をできるだけ書き記しておこうなどと言う殊勝な心掛けが、確かにいまあったのだ。

 

5月は書かないかもしれない。