真なる断罪に向けた最初の一歩
人と関わることが苦手でした。
自分一人の課題でさえ解決することが難しいのに、知り合いが増えれば増えるほどに、悩みなんてものは指数関数的に増大していくので、他人とは関わらない方が良いと、常々考えていました。
人間の悩みは全て人間関係だ、とアドラーは言いました。
それなら、関係を持つ人間の数に比例して悩みは増えていき、かつ人はたいてい複数の悩みを抱えており、かつ人間関係は一対一で対応しないので、もはや指数関数と近似できるのです。ちなみにこの前数学的帰納法を引き合いに出したりと、数学に絡めた話を良くしますが、数学は苦手です。考え方は割と好きですが。
今思えば、自分が無能であることは、小学生の時から既に体感していました。
例えば、みんなが出来るはずの逆上がりができない。水泳ができない。徒競走は最下位。勉強は当時はまだ平均的だったかもしれないけど、中学に入ったらそれこそ数学で赤点を取ったこともある。
友だちもほとんどいなかった。もちろん恋愛なんてできるはずもなく。
運動も勉強も、友愛も恋愛も、結局何もできない人間でした。
そのまま、大人になりました。
就活で、あなたの長所と短所は何ですか、と聞かれるときが、一番困りました。
なぜなら、何もできないからです。
どう答えれば良いのでしょうか。長所はなし、短所は全て、とでも答えれば良かったのでしょうか。
きっと自分の能力をチャート図に書き起こしたら、中央の黒い点にしかならないのでしょう。
自分一人の世話ですらやっとの人間なんて、所詮こんなものでしょう。
自己受容もままならないのに、他者理解などに思考が回るわけもなく、他者貢献など夢のまた夢。
共同体感覚など身につかず、あっという間に孤立しました。
孤立するからみんなの気持ちが分からない。分からないから無意識に傷つける。傷つけるから人が離れていく。そして孤立が深まっていく。
いよいよ、自分は一人で生きていくんだという覚悟をしました。そうせざるを得ませんでした。
研究室に配属されました。必然、他人との関わりが求められました。
そのころには、最低限うまくやり過ごす術を何とか身に付けていました。
人間、特に日本人は空気を読めるので、非言語コミュニケーションを通じて、こちら側の線引きを提示して、お互いに深く関与しない道を選ばせる。
仕事上のコミュニケーションは取れるけど、それ以上の関係性を生まない。
そういうスキルを磨く場だと考えていました。
そうすれば、お互い傷つかずに済みます。
気づいたら、その考えがいつしか消え失せていました。
どうして忘れていたのでしょうか。
居心地が良かったからなのでしょうか。
こんな他人を傷つけることしかできない無能が、ほんの一瞬だけ、夢を見ていました。
とても幸せなモラトリアムでした。
でも、世界は、現実はどこまでも残酷なので、最後にちゃんと、そのツケを払わせに来ました。
こういうところは、本当によくできています。バランスを取りに来ましたね。
だから、ちゃんとツケを払います。
罪には罰を。そして償いを。
当たり前のことです。
だからこそ、ちゃんと罪を把握しないといけない。
その為には対話が必要だと考えるようになりました。
勝手に罪を規定して、勝手に償ったつもりになってはいけない。
正確に罪を把握して、しっかり断罪される。
そういうプロセスが大事だと学びました。
とても心が痛む行為だけど、それが最後の恩返しだと信じて。
大丈夫です。結末はちゃんと考えています。