松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

陽が傾く館

いつも長文を投稿する場所があるのだが、そっちの方には投稿できないくらい、色んな意味で攻めた内容の長文を書いてしまったので、代わりにこちらに載せることにする。青森旅行の集大成みたいなもの。

 

考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変わっているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。(中略)そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。(太宰治人間失格』より)


人間失格の主人公は、幼い頃に既にこのような思いを抱き、若くして戯け、お道化を演じた。

その姿がまさに昔の、そして今もそうだが、僕自身と重なることに気付かされた。

小学生の僕は、ひどいいじめに遭っていた。

時には、ただ通学路を歩くことさえ否定され、自分を認めてくれる存在は一人もいなかった。

それでも小学校には行かなければならない。それは当時の僕にとっては一種の呪いのようで、吐きそうになりながら、泣きそうになりながら、それでも呪いに従って、クラスという名の拷問部屋へと足を運んだ。

そうして謂れのない刑罰を、それを与える資格もないはずのクラスメイトから受けながら、僕はいよいよ人間を恐れるようになった。世の中の人間という生き物は、こぞって僕を排除しようとする。その理由を考えた時に、もしかしたら僕は人間ではないのかもしれない、あるいはとても人間とは言えない、何か変わった存在なのかもしれないと、思い始めた。ミツバチがスズメバチを寄ってたかって排除するように、僕も同じ人間という生き物ではあるが、更にその下流に分類があって、それが他の人間とは違っていて、さながら人間亜種に属するのではないのかと思い、それを世間に見破られ、排除されることをひどく恐れた。

では排除されないためにはどうすればいいか。

クラスで地位を獲得している人をつぶさに観察すると、大まかに二つのタイプに分けられた。一つは、物理的な力が強いタイプ。もう一つは、周囲をよく笑わせるタイプ。

非力な僕が選ぶ道は、自然と後者になった。見よう見まねで彼らに倣い、そこからエッセンスを抽出して応用し、クラスのみんなを笑わせようと努力し……気付いたら、ピエロになっていた。

僕はこの時既に、「笑わせる」と「笑われる」ことの違いを肌感覚で覚えていた。そして僕は、拙い芸を披露するたびに「笑われて」いた。

それでも僕は良かった。排除され追放されるより、何倍もマシだった。

僕には、笑わせる才能はない。だから僕は笑われにいった。クラスの人気者でも、三流芸人ですらない。僕はまさに、お道化となっていたのである。笑われることよりも、失望されることの方がずっと恐ろしかったからこそ、こうして今も、ピエロを演じ続けている。

そういう意味では、僕は時に両親の眼前ですら、ピエロを演じてみせる。自慢ではないが、僕は特にこういう方面の演技力は高い。このピエロは、自らの生みの親の前でさえ、仮面を外さない。なぜなら、父親が怒り狂い、目の前でボールペンをへし折る姿や、母親がまるでゴミでも見るような目で僕を見る姿を見るくらいなら、たとえどんなにつまらなくてもお道化を演じた方がマシだからだ。もちろん他の人間なら尚更で、自分が本当の人間ではないことを見破られ、差別と軽蔑の目で見られたくないからこそ、本来は無口で静かに本を読んでいたいのだが、常に、そして必死に道化を演じた。僕を見て笑っている瞬間だけは、僕が人間ではないかもしれないという懐疑の念を消し飛ばせると信じていた。


しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様がないし、また口ごもりながら一言でも抗議めいたことを言いかけると、(中略)世間の人たち全部、よくもまあそんな口が聞けたものだと呆れかえるに違いないし、自分はいったい俗に言う「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。(太宰治人間失格』より)


そんな敗北の少年、もとい敗北の道化師は、自らの顔に仮面をべったり貼り付け、塗り重ね、もはや本来の顔を思い出せなくなってしまった。いや、この思いすら嘘かもしれない、しかし思い出せないのは事実、だが本音は言っている、しかしどの顔での本音なのか……本物ってなんだ?教えて八幡。こうごまかす時点で道化……うむ、分からない。ただ一つ確かなのは、僕はもはや道化なしでは生きていけぬということである。

その性分は、誰かと話す時に、息を吸うが如く現れる。つまるところ、僕は真面目な話を真面目に聞けないのである。友人と話すときは、話しながら、あるいは聞きながら、平気な顔のふりをして、どんなに寒くてもつまらなくてもいいから、懸命にジョークを考える。偉い人と話すときだって、ジョークまではいかなくても人より変わった言い回しをする。そうして相手の注意の矛先を、自分という存在の本質ではなく、目先の言葉に向けさせる。真剣勝負するときっと勝てないから、相手が真剣を出してきても、こちらは錆びた刀とか、木刀とか、ラップの芯を持ち出して、勝負を不成立にさせる。別に負けたくないのではない。真剣勝負を通じて、自分のちっぽけな心が、薄っぺらい本質の透けて見えることが、相手の失望を誘う気がして、恐ろしいのである。その点、相手が真剣を抜いてもこちらが錆びた刀を抜けば、錆びた刀に対して、あるいは錆びた刀を抜いた僕に対してしか失望しない。錆びた刀を抜いた僕は紛れもなく仮面を被った僕なので、傷がつくのは仮面であり、その内側にある、僕自身が持つ弱く醜い顔ではない。だから僕は確実に、真面目な話をしない。なぜなら、僕は真なる面目を出せないからである。また、僕は人間の目ほど恐ろしいものはないと考えている。一度目と目が合えば、自分が人間でないことが刹那のうちに明らかになってしまうと恐れ、あるいは自分を異存在を見るような目で見てくるような、罪人を咎めるような目を一瞬でも見ることが怖くて、もはや人間の目を見ることなど、自分には到底叶わないことである。


笑い。これは、つよい。文化の果の、花火である。理智も、思案も、数学も、一切の教養の極致は、所詮、抱腹絶倒の大笑いに終る、としたなら、ああ、教養はーーなんて、やっぱりそれに、こだわっているのだから、大笑いである。(太宰治『思案の敗北』より)


結局のところ、僕は他人の幸せを願って、誰かを笑わせ(れ)てきたのではない。それについ先日気付いた。一日一笑、などという標語を振りかざし、人は笑っている時に一番幸せである、などとうそぶき、自分が行っていることは奉仕活動であり、サービスであり、時には社会への還元であるとすら、考えたこともある。

しかし本心はそこにはない。微かながらも上記のような思いを抱いていることは事実だが、これは第一目的ではない。一番の理由は、誰かを笑わせることで、人間の警戒心を緩め、取り入り、そして自分という存在を正しく認識する前に、「面白い奴」あるいは「変な奴」というバイアスを持たせ、自らの核を煙幕で遮ることであった。今思えば、笑いという感情が強いということを、かなり前から無意識的に知っていたのである。


最早、生まれてくることが罪だったのだ。すべての人間を裏切り、疎まれるばかりで何もできない僕は、まさしく罪の塊。そうして人間に怯え、人間から忌まれながらに生きることは、僕にとっての罰である。そして、死ぬことで僕に対する不満が昇華され、最後にわずかばかりの償いを行う。

社会の片隅、正気と狂気の間に暮らし、人間と非人間が融合したようなおぞましい存在。

それが僕の正体である。もはや人間失格どころの話ではない。

俺は生物を失格していた。