松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

ループもの?

「愛の反対は憎しみではなく無関心である。」

ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサは、こんな名言を残した。

これを最初に聞いたとき、当時の自分は違和感を覚えた。確かに相手に対して怒りを覚えるとき、そこには相手に対する期待の裏返しが込められていることが多い。真に相手に失望した時、人は怒りを越えて無関心になる。

しかし、無関心であることは、単純に相手に対する評価を保留しているだけに過ぎない。一度相手を認識すれば、自ずと好きか嫌いかのカテゴリに分類される。人は比較する生き物であり、過去の人間と照らし合わせて、どれくらい好感度があるか、もはや無意識的に分類している。だから、無関心は愛の対義語としては成立しない。単純に、無関心の反対は興味である。この興味の細分類として、好きか嫌いかという対立項が含まれる。

では愛憎と無関心との関係性はどのように規定されるのか。

答えは、先に述べた中にある。意外にも、憎しみの向こう側である。

 

これは、自らの身を犠牲にしたフィールドリサーチからも明らかである。

例えば、中学の時、(一応)友人として振る舞っていた彼と、ちょっとしたことから諍いを起こしてしまった。

その時の自分は、彼を無視することに決めた。彼の幼稚な精神性に辟易し、もはや対話することを諦めていた。

そうしたら、次の日から彼も自分を無視し始めた。こうして、仮初めの友人関係はあっという間に瓦解した。その後は、もはや無意識的に無視するようになり、そこに憎しみなど無かった。

まさに、憎しみの先には、無関心が存在していた。

さて、こうした根拠に基づいた真理は、根拠の数だけ真実性を増す。

実家で療養を終えた後、2週間ぶりに研究室に復帰した。

そうしたら、誰も話しかけてこなかった。存在として認識はしているが、目線を送ることもない、純粋な無関心。

彼らの中で自分は、憎しみを越えた無関心を勝ち得ていた。

やるべきことを終えた後、自分の部屋に帰り、思わず笑ってしまった。

決して強がりではない、内発的な笑いだった。世界の真理を見つけた感慨の表れだった。こういう時に笑ってしまう癖何とかしたいなぁ……。

 

それと同時に、自分がどれだけ憎悪の対象になっているか、ということを体感することができた。というか、もはやその段階すら超えていた。なぜなら無関心のフェーズだからだ。

分別のある人間であれば、相手を憎むことの無意味さを理解する。それこそ、中学の時に彼を無視した自分が良い例だ。

相手を愛することも憎むことも、割と労力を要する。強烈な感情を継続させるためには、思った以上に大変なものだ。なれば、無意味な思考は放棄して、生産性を高めることを考えた方が良い。至極合理的な思考だ。

では、彼らの思考の外側に追い出された人間が取るべき行動とは何か。

特に何もしない、という行動だ。

例えば、電車でたまたま隣に座った人間に、私たちは何かを求めるだろうか。交差点ですれ違った人間に、何かを要求するだろうか。

足を踏まれたら、ムカついて、謝れよとは思うかもしれない。

ただそういった干渉されるような出来事がない限り、お互い見知らぬ他人同士であり、その存在を気にも留めないだろう。

つまり、贖罪のフェーズはもはやとっくに終了していたのだ。

 

そもそも、これまで失敗ばかりを積み重ねてきた人間が、何かを贖罪できるわけがないのだ。それができるなら、最初から失敗などしていない。

贖罪しようという考え方自体が間違っていた。自らが生み出した罪を償うことも、仮に償った後に許されることも、あり得ないのだ。

例えば、自分の好きな有名人が、とある凶悪犯に殺されてしまったとしよう。

その時、その人を応援していたあなたは、犯人に対して何を思うだろうか。

個人の感受性にもよるが、死んでも許さないと思う人も、割といるのではないだろうか。

つまりこの犯人は、法律によって罪に対する罰を受けたとしても、それは被害者を救済できていないという点で真の償いではないし、ましてや世間に許されることもないのだ。

この例は極端ではあるが、同じような構図はそれなりに見られるのではないだろうか。

それこそ、愛の反対が憎しみであるという真理を、少し応用するだけだ。

相手を一瞬で好きになる一目惚れが存在するなら、相手を一瞬で嫌いになる現象だって存在する。

生理的に無理とか、あの気持ち悪い笑みが嫌いだとか、人はそんな簡単な理由で、他人を憎悪する。

それならば、大なり小なり罪を犯した人間であれば、なおさら嫌われて当然である。

そして一度固定された印象は、そう簡単には覆らない。

従って、自分が許されることは、決してない。

 

これは自分の中では新しい発見だ。

そういえば、能動的に罪を犯したのは、随分と久しぶりだ。

なぜなら、こんなことが起こらないように、常に孤独を貫いてきたからだ。

そしてまた、共同体に居場所がなくなり、必然的に孤独になった。

孤独になることで、昔の感覚と感性を取り戻しつつある。

これまで既に明らかにした真理を再証明しつつ、新しい真理も見つけていく。

自らの哲学と、世界に対する考察が、久しぶりに捗っている。

人は一人になると、一人で自らの周囲を取り巻く環境を全て把握し理解しないといけなくなるから、生存本能に従って感性が鋭敏化するのだろう。

本当に、この感覚は数年ぶりに取り戻したが、感性は全く衰えていない。

取り戻す時間こそかかったが、今や完全に取り戻しただけではなく、これまでに蓄積した知見を統合し応用することで、新しい真理も見つけている。

むしろパワーアップした感じだ。OSの大型アップデートをした感じだ。

 

さて、こうした言説を積み重ねて、結論を導くと、もはや自分には何もできず、一人になったということである。言い方を変えると、元の木阿弥である。

高校の時に、不完全ながらいくつかの世界の仕組みを理解して、自分は一人で生きていくという覚悟を決めた。正確には浪人時代だけど。

大学に入って、共同体に強制加入させられて、集団で事に当たるというプロセスを経験した。

少し話が逸れるが、この社会は無縁社会である。教養の授業で、これについてレポートを作成したことがある。

地縁も血縁も希薄になり、個人が個人として独立に生きていく時代になった。

これに警鐘を鳴らす言説も存在する。とある社会学者は、身体性を持った連帯性の喪失は、感情の劣化を招くと言った。確かに、リアルな人間との接触は、心理学的にもストレスを軽減させる効果があるそうだ。単純接触効果、なんて簡単な要因で人間は勝手に恋に落ちるのだから、人と繋がるという行為にはある種の力がある。

しかし、こうした主張は、連帯する喜びのみに焦点を当てているが、それなら連帯しない喜びだって存在するはずだし、それについても議論するべきではないだろうか。

両者の喜びを知った身としては、この2つは独立していると思う。

連帯することでしか得られないものがあり、連帯しないことで得られることもある。

これらは独立しているため代替は不可能である。しかし、一方の喜びが失われたとしても、もう一方の喜びを極大化すれば、結果的に感情の劣化は避けられるのではないだろうか。

そして、これからは、自分が自分で自分を喜ばせる時代へと変遷していくのではないだろうか。実際に、一人で楽しめるコンテンツは山のように存在するし、ぼっちを極めると周囲の環境を観察しているだけで既に面白い。

連帯の重要性を説く人は団塊世代付近の出自が多く、また分野にもよるが、学問というものは理想像を提示するだけで、現実とのすり合わせはあまり行われない。

もはや、連帯する喜びというものは、過去の理想論でしかないのだ。

だから、この社会は無縁社会である。

 

長くなってしまったが、結論は最初から決まっている。

これまでも、そしてこれからも、一人になっても歩くんだ、ということだ。

幾度となく共同体に入っては、排除されることを繰り返してきた。

これが一昔前であれば、共同体に存在することが個の生存に重要であったため、それでもなお共同体に入っていく努力をしなければならなかったのだろう。

しかし現代はさにあらず。

ぼっちを極めし者は、寄る辺がなくとも一人で歩いていけるのだ。

そして未来は、それが主流にさえなり得る。個人で全てが完結する。

少し未来の思考を先取りしてしまったと解釈して、時代が追いつくのを気長に待つことにしよう。