松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

史上最も苦いバレンタイン

中世で活躍したフランスの哲学者・デカルトと言えば、やはりこの名言である。

「我思う、故に我在り。」

彼の哲学の出発点を表す言葉であり、それは自意識から生み出されていた。

今ここでこうして思考している自分が存在する、ただそれだけが真実であると規定し、その他の全てを懐疑した。そうして彼は、自分を起点に、真理を見つめ直し、神の存在証明さえ行い、一つの哲学体系を確立するまでに至ったのだ。

 

最近は随分と色々な価値観に触れたり、昔読んだ本をよく読み返しているおかげで、常に頭の中が混沌を極めている。よって色々と文章を書き留めておきたいとは思うのだが、いかんせん頭が全く休まらないので、少し砕けた文章を書くことにする。昔はそれに適した場があったのだが、今はそこで提供されるコンテンツが、自分の書く文章よりとても頭の悪い内容に成り下がってしまったので、長文を書くとすればここしかないのだ。

 

最近は、自らの思想体系をスクラップアンドビルドしており、何度も真理に達したかと思えば、また自己否定し、新しい価値観をインストールしては、いらない部分を捨てて、しかし捨てた中にこそ真理があるのではと思い直しては拾い上げ、また別の何かを捨てるという、もはや一見意味のない思考パズルを繰り広げている。何が必要で何が不要なのか、何が正しくて何が間違っているのか、今の自分にはそれすら曖昧模糊として、何も分からない。一時期は世界なんてこんなもんかと、達観していたというのに。さすがに齢二十とそこらでは、世界の真理など遥か彼方らしい。

あまりにも色々なことを考えすぎて、この思考そのものが、あるいは存在そのものが不要なのではと考えることも多々あった。実際、そうやって全てを否定して結論付ければ、どれだけ楽だろうか。

しかし残念ながら、その愚を幾度となく犯したせいで、ゼロか百かの二極的な思考に嵌ってしまい、やがて無能なくせして完璧主義者とかいう現代の化け物を生み出してしまったのだ。テストだって70点、80点で十分だったはずだし、大学の単位評価なんてものは61点を越えればとりあえず単位は貰えるのだ。

なので、無能であるという部分は先天性なので仕方ないとしても、せめて完璧主義から脱するためにも、結論を急がないように気を付けている。部分的にはアーであり部分的にはベーであり、その両者について検討する必要がある。……必要がある、と思っている時点で既にゼロ百の構図から抜け出せていませんでしたね!

これはアドラー心理学では、過度の一般化として、良くない思考の一つとされている。一部分の特徴だけを抜き出して、母集団全てがその特徴を持つという考え方は、確かに狭量である。しかし、母集団全ての特徴を理解するのはとても苦労がいる。だから統計学では、標本から母集団を推定する。この前書いた演繹法もそうだ。

では、金子みすゞよろしく、「みんな違ってみんないい」と結論付けるか。答えはノーだ。これこそ思考の放棄であり、"みんな違う"のに、みんなに対して一律に"良い"という評価を与えている時点で、過度の一般化を犯している。

しかし一方で、一般化なくして現代科学は成立しえない。それこそ一般化を罪とすれば、統計学演繹法も、エンコード/デコードの過程で抽象と具体を行き来する論理学でさえ、成立しない。よって一般化は科学の営みにも重要な概念である。では、過度とはどの程度なのか。教えてアドラーさん。

……とまあ、以上に示したのはあくまでも一例であり、他にも複数の議論において、このように自己立証と自己論破を繰り返しているのだ。

 

さて、タイトル回収に移ろうと思う。先ほど、スクラップアンドビルドしていると言ったが、今日まさにスクラップされた話を表している。

折しも今日(昨日)は、バレンタインデーであった。自分はもちろん、推しウマ娘からデータ上でチョコを貰ってとても嬉しかった。わあ感情の劣化が激しい。

だがバレンタインなどお構いなし、目下のイベントは修論の審査会である。十個以上ある研究室から、何十名といる修士学生を一堂に会して、修論を発表する場として、3日にもまたがって行われる一大イベントである。審査会って呼ぶと堅苦しいからこれもはやフェスとかで良いんじゃね。修論フェスって思うとちょっと気が楽になる。ならないか。発表は最後から3番目くらいなのでフェス的には割と大物扱いでは?打ち上げはおけまる水産で行おう。

卒業式を除いて、同期が集まる最後のイベントだけあって、懐かしい顔をよく見かけない。なぜなら知っている顔が少ないからですね。今時そこらの顔認証システムの方が自分より顔を識別できるまである。やはり時代はAIに移り変わるので働かなくてもいいと思いました。さっきから太字で強調する場所違くない?

そんな中でも、とある同期と久しぶりに邂逅した。

自分と同じように、哲学や倫理学、心理学を少しかじっている仲間だった。

そんな彼と、再開を祝して学食で色々と話していると、なんと研究室の助教がこちらにやってくるではないか。もう既に嫌な予感しかしない。

「元気になった~?」

「ええ、まあそれなりには……」

「みんなも心配してるし、一度研究室に来て、話だけでもした方が良いんじゃない?」

「それを彼らは望んでいるんですかね……」

いや、きっと望んでいない。散々他人を傷つけた現代の化け物に、帰ってきてほしいなどという想いを抱く人間が、果たしているだろうか。

そんなことを逡巡していると、助教はとっておきのセリフを吐いてきた。

「精神やっちゃった人にこんなことを言うのはアレだけど、来ないなら来ないではっきり言った方が良いし、みんなと会うのが怖いなら怖いってはっきり言った方が良いよ」

……まさにあんたのセリフが怖いっての。

これが助教なりのバレンタインプレゼントなんだろうなぁ(遠い目)。

一文内に、自分を慮る言葉と攻撃する言葉のどちらも内包されるという矛盾極まりない文章を吐き捨てられ、もはや笑うしかなかった。

それだけ言うと離れていったので、単にストレスのはけ口を探していたんですかね。まぁ今いる人にあたるより、いない人に当たった方が研究室内の秩序は保たれるので、そういう考えができるまで至ったという点は評価できます。

もちろん、自分に対する批判もあったことでしょう。さんざっぱら研究室の秩序をかき乱しておいて、復帰しても顔も出さずに友人と談笑していれば、腹も立つでしょう。

まあそれを感情論ですぐに表に出してしまうあたり、幼稚な精神性が垣間見えます。しかもなまじっか頭は切れるので、結論が決まれば後はそこまでの論理を強引にでも構築できてしまう点が、たちが悪いのです。アカデミアの悪しき結果主義が生み出した、論理の化け物です。つまるところこれは化け物同士の邂逅でもあったのですね。

これ以上助教を批判しても何も生まないので、そろそろ話を進めます。せいぜいいつかの創作のネタにでもなっていただきましょう。ちなみにあの口ぶりから察するに、多分この件に関して何も知らないのでしょう。かわいそうな人です。誰からも教えてもらえなかったという事実を考察してみては。

 

それまで久しぶりに再開した彼とは、各々の去就とか苦労話しかしておらず、研究室に行けなくなった話をしていませんでしたが、助教の一言をきっかけに話すことになりました。

……ここから本題なのに既に前座でだいぶ力が尽きた。簡潔に終わらせようと思う

一番心に響いた言葉は、「無関心と話しかけないは違う」ということだった。なるほど、確かにこれは自分の中にはなかった思想だった。関心はあるけど、それ以上の心理的障壁によって話しかけることを躊躇っているという状況は、意外と起こるものだろう。

そして、「本当に嫌われているかどうか確かめた方が良い」と言われた。個人的には、確かめるまでもなく明確な事実だと認識しているので、行くだけ攻撃されてすごすご帰るくらいなら行かない方がマシだと思っていた。実際に、助教の当たりの強さからも、それは立証された。ただこの点は自分もすごく悩んだことではあるし、もう少し精神ゲージを回復したら、最後に自分の考察が正しかったのかどうかを確かめに行こうと思った。

ただこの精神ゲージが、さすがになかなか回復してくれない。

そのことは指導教官には話したんですけどね……助教いややめておこう。

ただ指導教官との間でも、何となく齟齬がある気がする。確かに自分は回復したと言ったが、それは"健康で文化的な最低限度の生活を送るだけの意欲"が回復した"いう意味であって、"研究室に行く意欲"は回復していない。メンタルクリニックでも、前者の意欲回復を第一に据えて治療しているので、後者の問題は実は手付かずである。

 

さて、今日もまた、スクラップアンドビルド。真実に到達する日は、果たしてくるのだろうか。こうご期待。