松前藩主の黒色Diary

タイトル通りです。松前藩主とかいうどこぞの馬の骨が、日々を黒(歴史)に染め上げていく日記です。

自由な労働を義務付けられた社会

さて、ようやく前座の話が終わり、本題へと入っていきます。落語だったら前座だけで客がいなくなるレベル。本題は饅頭怖いにでもしておくか。

 

突然ですが、QLCという言葉を聞いたことがあるでしょうか。

ちなみに頭FPSの僕は、一瞬LCQと見間違えてしまいました。世界3位感動した!

QLCというのは、「クォーター・ライフ・クライシス」の略で、20代後半から30代前半にかけて訪れる、人生観に対する危機感のようなものです。れっきとした心理学のアカデミックワードであり、決して僕の造語などではありません。

まぁ平たく言えば「自分の人生はこれで良いのか」などの焦燥感を指します。

たまたま東洋経済の記事を読みあさっている時に、この言葉を知りました。

toyokeizai.net

 

少し話は変わり、私事になりますが、先日就職先を決定しました。正確には、選択肢が一つしかない、もっと言えば、内定が一つしかなかったのですが。

まあこれの2つ前くらいの記事で書いたように、社会不適合者の急先鋒にいる自分が、内定をたった一つでも獲得できただけでも、十分な成果だと、考えています。

緩やかに成長する中堅メーカーの、技術系と決まりました。

本社が少し都会から外れた工業地帯になりますが、ちゃんと住む場所を考えれば、滅多な不自由は起こらない生活が送れそうです。

内定先には悪いですが、以上から簡潔にまとめると、「まあまあな人生」を送ることになりそうです。

特別煌びやかな生活ではないが、劣悪な環境でもない。まさに中流階級です。

仕事は割と興味が持てる内容で、人も割と良さそうです。給料は分かりませんが、今のところ自分には結婚はおろか交際すら全く見えてこないため、お金に困ることはなさそうです。あまりお金のかかる趣味もありません。せいぜい、毎年スキー旅行に行きたいくらいです。そんなの初期投資さえ済めば、毎年5万円もかかりません。

 

ここで、話が戻ります。そう、QLCの話です。

本当に自分は、この人生で良いのかと、考えてしまうのです。

親は一流企業の、しかもいい役職まで上り詰めていました。

おかげで、目に見えてぜいたくな暮らしをしていたわけではありませんが、何一つ不自由のない生活を送ってきました。

実家がある街も非常に良く、今から思えば愛着の湧く街でした。

はっきり言って、恵まれていました。

そんな簡単な事実を、もちろん分かってはいたのですが、就活を通じて、より実感の伴う形で再認識させられました。

今は一人暮らしをしていますが、それでも南関東県内です。

しかし、就職先は、そこから遠く離れた街です。東京に出ようと思えば、新幹線を使わないと行けないレベルです。

いくら住む場所をちゃんと考えたって、多かれ少なかれ見劣りはしてしまいます。

利便性だってそうです。景色も随分と変わるでしょう。

別に全面ガラス張りの高層ビルに勤務したいとは思いませんが、同じ仕事なら建物は綺麗な方が、少しはやる気が出るでしょう。

また会社も中堅であり大手ではないため、福利厚生も恐らく中堅で、社員もそこまで優秀ではないでしょう。失礼な話かもしれませんが。

 

要は、都内に本社を構えるような、大手企業に入った方が、より良い人生を送れるのではないか、という仮説が、どうしても頭の中を離れないのです。

都心近くに住み、毎日綺麗な高層ビルに通い、設備の整った環境と、優秀な仲間と一緒に仕事をする。お昼は時々会社の外にあるお店などに行ったりして、時々社内かビル内にあるカフェでサボ……息抜きして、また仕事に戻る。大手の仕事は規模も大きいため、ゆくゆくは社会を、世界すら変えるような仕事に、携わる機会だってあるかもしれない。給料だって良いので、後顧の憂いなく、それなりに贅沢して質の高い暮らしができる。

まさに仕事もプライベートも充実した、文句なしの人生。それを叶えるには、ほとんど大手の企業に入るしか道はありません。

なまじ大手企業の説明会やら選考を受けていた身としては、あと少し手を伸ばしたらそれが夢ではなく現実になっていたのかもしれません。

もちろん、大手に入れば必ずいい人生を送れるとは限らないことは分かっています。でもその確率は、間違いなく他の選択肢より高いでしょう。まぁ起業すれば話は別ですけど、自分にはそんな才覚はありません。

 

そんな一歩先にある夢物語を見ると、相対的に現実はやはり、少しほの暗い様相でした。

これに悩んでいたのは4月前半あたりであったため、まだ就職活動を続ければ、そのチャンスも十分あると、考えられました。

そう、自分の人生はこれで良いのか……まさに、QLCになっていました。

そこで僕は、ずっと幸せについて、考えていました。

自分が幸せになるためには、何をすれば良いのか。

どういうときに、幸せを感じるのか。

それを持続させるには、どうすればいいのか。

そんなことを、ずっと考えていました。

 

幸せな人生を送るためには、幸せな人生を送らなければなりません。

これではトートロジーですので、人生を因数分解します。

すると、だいたいは仕事とプライベート、この2つに分けることができます。

プライベートの充実方法は、いくらか思いつきます。自分には見たいアニメとやりたいゲームと読みたい本が数え切れないほどあり、さらに一人旅も好きなので、そういったことにずっと取り組み続けていれば、価値観が大幅に変化しない限り、プライベートは幸せであると言えます。先述のように、これらはそこまでお金がかかるわけではありません。よってそこまで可処分所得が多くなくても、実現可能です。

ではその所得を稼ぐ仕事はどうでしょうか。仕事で幸せになることは可能なのでしょうか?

人間は随分と欲深い生き物で、仕事をするだけでお金がもらえる、ただそれだけで、本来は幸せなはずなのに、現代ではそれが当たり前となっているため、お金をもらうだけでは、幸せになれないのです。

では仕事で幸せになるにはどうすればいいのか。

これは自分が思うに、マズローの欲求階層説を引っ張ってくると分かりやすいと思うのです。

会社に所属した時点で、第3段階である社会的欲求は満たされたと見なします。

次が承認欲求です。簡単に言えば、会社や上司、同僚などに認められるかどうか。これは会社との相性ですが、最低限の仕事をこなせば、そこそこ満たされるでしょう。

最後が、自己実現欲求です。Wikipediaによれば、「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」です。

つまり、自分が余すことなく能力を発揮し、その結果仕事がうまくいき、いい気分になりたいという欲求です。これを満たしたとき、きっと仕事でも幸せを感じることができるでしょう。

逆を言えば、自分の能力に見合い、かつ自分のやりたい仕事ができそうな会社を、見つけなければならないのです。

これはとても大変なことです。日本だけでも会社は450万社あるそうです。

その中から、上記の条件に合致する仕事を見つけなければならないのです。

はっきり言って無理ゲーでしょう。

最近の若者が、起業したがる理由が、何となく分かります。探すより作る方が、きっと楽です。無論、起業には起業なりの苦労があるのでしょうけど。

父親も、仕事は「辛くないけどつまらない」と言って、定年を前に辞めてしまいました。きっと、会社では自己実現が達成されなかったのでしょう。

でも父は、随分と人生を楽しそうに過ごしています。その理由は、きっとプライベートがとても充実しているからでしょう。父は大の音楽好きであり、特にギターは何本も持ち、一時期はバンドを複数掛け持ち、おびただしいほどのCDを所持していました。

そんな父を見て、僕は確信しました。

仕事が楽しい、なんてのはきっと幻想なのだろうけど、プライベートが充実していれば、それだけで人生は十分幸せなのだろうと。

仕事なんてものは、正直辛くなければとりあえずOKなのです。

ここでタイトルを回収します。確かに現代日本は、職業選択の自由があります。

しかし生きていくためにはお金が必要で、お金を得るためには、働かなければなりません。もちろん、今はそれ以外にも方法はありますが、最も確実な方法は、間違いなく労働でしょう。

そういう意味で、私たちは「自由な労働を義務付けられている」と言えるのです。

確かに、楽しい仕事もあるかもしれません。しかしそれは、とても優秀なほんの一握りの人間にしか味わうことのできないもので、自分のような凡愚には手が届きようもないのです。

職業選択は、権利であって自由ではありません。職業選択の幻想と、言ってもいいかもしれません。どうせ究極的には、やることは一緒なのですから。そう、上から与えられたタスクをこなすだけなのです。私たちが選んでいるのは、その「上」でしかありません。いくら裁量権が与えられようが、会社の資産を自由に使えるわけではありません。

そういう意味では、下手に職業選択の自由という名の幻想など、与えられなくてもいいのではないかと、思ったりもします。

江戸時代は士農工商は分別され、階級として成立していました。例えかっこいい武士になりたくても、餅屋の息子は餅屋にしかなれず、豆腐屋の息子は豆腐屋にしかなれないのかもしれません。

しかし僕は、豆腐屋の息子でも構わないと思います。確かに毎日朝早く起きて、冬場は冷たい水の中にずっと手を突っ込み、あかぎれを起こしたりするのかもしれません。でも、近所の人が笑顔で自分が作った豆腐を買って行って、くだらない雑談して、いつしか村の中で結婚して、たまーに歌舞伎でも見に行って、一生豆腐を作り続けるーー。別にそれでも十分幸せでしょう。

むしろ、自分には本当は職業選択の自由があって、豆腐屋以外の可能性もあったんだと、知ってしまうことの方が、不幸であるとさえ思います。

また自分の良くない性格が出ていますね、下を見て安心する。

でも、地に足付いているかどうかを確認するためにも下を見ることは大事だと思うのです。ほら、時々ガムとか落ちてたりするし。

そもそも、人間は比較論で生きています。相対的に、比較し続けて、生きているのです。

右と左を比較し、上と下を比較し、やがて夢と現実を比較する。

だが、上を知らなければ自分が下であることも知らずに、夢を見なければ、現実の残酷さを知ることもないのです。

豆腐屋の息子は豆腐屋にしかなれないからこそ、武士の華やかな生活を知らず、自分の身の回りに起こるささやかな幸せに満足して、一生を終えることができるのです。

人間は幸福を貪る醜い生き物なのです。幸福の上限値は常に更新され続け、留まるところを知らない。故に人間は増長するのです。

それが人間を進化させる原動力であることは認めますが、際限なき幸福の追求の果ては、きっと崩壊だと思います。

 

もしかしたら大企業に行って、高給取りになれば、際限なき幸福の追求ができるのかもしれません。しかしその時、既にささやかな幸せでは満足できない体になってしまっているのです。一度肥えた舌は元に戻りません。

僕は幸福度の最大値を上げ続けるのが怖いと思うので、あまり贅沢はしないと思います。

仕事も、世界を変える中心にいるような仕事に、憧れることはありますが、でもあまりそうなりたいとは思えません。自分にそこまでの器量も責任も取れません。

そうして、煌びやかではないけど、ささやかな幸せを噛みしめて、生きていく。

そんな人生でも、きっと価値があると、結論付けました。

そうして僕は、自由に仕事を選び、義務で労働して、その合間にプライベートを楽しんで、それなりの人生を送ることにしました。

皆さんはどうでしょうか。きっと僕よりもっと高みに行って、僕を見下ろすのかもしれません。

でもその時は、きっと僕は皆さんレベルでは幸せだと思えないことでも、幸せだと感じて、生きていることだと思います。